vol.724『謙虚さについて』

たまにテレビのクイズ番組を観ていて、回答者が答えに窮していると、いらいらして“そんなことも知らないのかよ!”と怒鳴ったりする。自分だって知らないことだらけのくせによく言えるわね、とかみさんにたしなめらる。そんな私の苦手な分野のひとつは、「ノーベル賞を受賞した日本人をフルネームで10名答えよ」─。「ゆかわひでき」と「かわばたやすなり」ぐらいしか答えられない。ノーベル賞というものにほとんど関心がないので、今回、本庶 佑・京大教授が医学生理学賞を受賞したという臨時ニュースも“ああ、そうですか”という感じだった。

その本庶氏が受賞決定後初めての講演を、愛知県内の医科大学で行なったのだが、その報道記事を読んで感銘を受けた。本庶氏は学生や教職員ら約2千人を前に、受賞理由となった、がん免疫療法につながるたんぱく質発見の経緯や、今後の治療の可能性について紹介したのち、「感染症やがんによる死を恐れずに済むようになったら、人はいつまで生きたいと望み、それで幸せになるのか」と問いかけ、「自分はどう死にたいのか、一人一人が終末期医療を真剣に考えることも重要」と述べたという。

折りしも、新聞広告で「死ぬときぐらい、好きにさせてよ」と宣言し、末期がんを宣告された後、延命治療を拒み自然死を遂げた、女優・樹木希林さんの死生観が注目され、日本でも終末期医療への関心が高まっている。実際、国の最新の意識調査では、末期がんになった場合、「治療優先の医療」ではなく「生活や私欲を優先した医療」を選択するという回答が7割を超えたそうだ。しかし、長年、日本の医師は「死は医療の敗北」と教えられてきたため、命をできるだけ長らえさせる延命治療を医療者の義務とみなしてきた。今回、がん治療の最前線に立つ医師が、死を敵ではなく、友のように受け入れるよう諭したことは興味深い。

考えてみれば(考えなくても分かるが)人は皆必ず死ぬ。今後、医学がどれほど進歩しようとも、この現実は覆せないだろう。仮に死を克服できたとしても、本庶氏の言葉を借りれば「それで幸せになれるのか」─。この言葉を聞いて思い浮かんだのは、手塚治虫の『ブラックジャック』で、主人公BJの命の恩人であり、師でもある医師・本間丈太郎が死に際にBJに言って聞かせる「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」という名言。そういえば、「本間丈太郎」の名を縮めると“ホンジョ”になるなぁ…なんて。

で、何が言いたいかというと、がんの治療薬を開発し、ノーベル賞を受賞しても、高慢になることなく、むしろ医者のタマゴたちに、医学の限界を受け入れ、いかに死と向き合うかを説く本庶氏の謙虚な姿勢に心を打たれたということ。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」ということわざがあるとおり、賞賛されるような業績をあげればあげるほど、人は謙虚になるべきなのだ。ナイチンゲールも「もし英雄というものが、他者のために崇高なことを行なう人をさすのであれば、高慢にならず、謙虚そのものであるような人です。自分で自分を英雄だなどと思う人は、取るに足らない人間です」と語っている。一方、先日国連総会で、「私の政権はこの2年半で史上最も多くの成果を上げた」と演説して世界中の笑いものになった某国大統領は、謙虚さを欠いた人物のきわめてわかりやすい見本といえるだろう。

しかし、謙虚な人間になるというのは決して簡単なことではない。ちょっとばかし人より秀でているだけで、自惚れ、傲慢になり、破滅してしまった人たちの何と大勢いることか。幸い私は、人より秀でていると思えることが何も無いので、傲慢になりたくてもなれそうもない。では、謙虚な人間かといえば決してそうではない。見せかけの謙虚さはあっても、真の謙虚さ─すなわち、気質が温和で、過ちをすぐに認め、常に慎み深く振る舞える人になるのは本当に難しい。謙虚さを弱さや卑屈さと結びつける人がいるかもしれないが、実はこの特質は強さや勇気のある人が持つものなのだ。GS業界の人たちも、現在の状況を謙虚に認め、自分たちの限界をわきまえる勇気を持って行動すれば、いまよりもっと幸せに過ごせるのではないかなと思う。まあ無理でしょうけれど。もしそれができればノーベル平和賞ものの快挙だ。

 セルフスタンドコーディネーター 和田信治
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