昨年12月の日経新聞「私の履歴書」は、江夏豊氏。20世紀最高のプロ野球投手である。阪神タイガースのエースとしての凄まじい戦いの日々。1968年にマークした401奪三振は今後も破られることはないだろう。その後、野村克也と出会いリリーバーとして復活すると広島カープへ移籍、1979年の日本シリーズで、あの“江夏の21球”の伝説を生み出した。管理野球の台頭で、プロ野球から個性が失われつつある中、己の力を信じ、頑なに信念を貫いた“孤高の左腕”の物語を毎日わくわくしながら読んでいた。
“次は星野仙一の「履歴書」が読みたいなぁ”と思っていたらまさかの訃報。1970年代、中日ドラゴンズのエースとして活躍、とりわけ巨人戦に闘志を燃やしたが、投手としての成績は江夏とは比べ物にならず、並の上ぐらい。やはり星野氏といえば熱血監督としてその名を轟かせている。中日で2度、阪神で1度リーグ優勝を果たし、2013年には楽天を日本一に導いた。いずれも監督就任直前は順位が5位以下という状況からの快挙であり、そのリーダーシップは野球ファンのみならず、企業経営者たちからも関心を集めてきた。
広告代理店などが、「上司にしたい人」というアンケート調査をよくやるが、その中で星野氏はいつも「したい人」と「したくない人」の両方でランクされる稀有な存在だった。マスメディアを通してのイメージで答えた結果とはいえ、星野氏が良くも悪くも注目されるリーダーだった証といえる。「したい」理由は、情熱的、部下をやる気にさせるなどである。「したくない」理由は、感情的、強権的、暴力的といった側面である。
確かに、星野監督の鉄拳制裁はよく知られていた。故人となったいまでこそ、当時ボコボコにされた選手たちが“あの鉄拳があったからこそいまの自分がある”と感謝さえしているが、すべての選手がそのように受け止めたかどうか。第2次星野政権2年目の1997年、打ち込まれたリリーフ投手に星野氏が激しい暴行を加え、病院行きになるほどの怪我を負わせたことを見かねたアロンゾ・パウエル外野手(1994年から97年まで3年連続セ・リーグ首位打者に輝いたドラゴンズ史上最高の外国人選手)が、「自分がそんなに強いと思うなら私を殴ったらどうだ。救急車で病院行きになるのはあなたのほうだぞ。これ以上、ほかの選手を殴るのはやめてくれ!」と訴えたという。
「殴られるのは愛情の証」とよく言われるけれど、昨今では、指導者が残酷な体罰を加えたことが原因で選手が自殺したり、障害を負うといった事件がしばしば起こる。横綱がカラオケのリモコンで後輩の頭を殴ったことが発端となり、角界を揺るがす大問題になったことはご承知のとおり。もはや、愛情があろうがなかろうが、暴力で物事を教えることは許されない。星野氏は阪神監督2年目の2003年に日経新聞のインタヴューで将来のビジョンについて尋ねられ、「僕だけではできないけど、やりたいのは学校教育だね。今、子供の教育をやらないと日本は絶対ダメになるから」と答えているが、一体どんな教育がしたかったのだろう。
星野監督はまぎれもない「名将」である。ただし私がそう認める理由は、選手を育成する上手さや、采配の巧みさゆえではない。政治力とでもいうべきチーム編成における辣腕振りである。中日監督1年目に若干39歳で、落合博満を獲得するよう親会社・フロントを説き伏せた。阪神監督2年目には伊良部秀輝・金本知憲という投打の主軸を獲得すると共に、大胆なトレードにより全選手の3分の1を入れ替えるという荒療治で18年ぶりの優勝を果たした。楽天では現役メジャーリーガー3人(アンドリュー・ジョーンズ、ケーシー・マギー、斎藤 隆)を獲得、初優勝へと導いた。普通の監督ならこれほどの補強を実現させるのは到底無理。球界のみならず政財界や芸能界にも幅広い人脈を持つといわれた星野氏の為せる業だ。元選手でNPBコミッショナーになるならこの人だろうと目された人物。私としては、全石連の会長にでもなって、相変わらず安売りを続けているGS経営者や、それを見て見ぬ振りしている元売幹部にその“鉄拳”を振るってほしかった。
セルフスタンドコーディネーター 和田信治
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