いまから102年前の1909年、米国ワシントン州スポケーンの教会で「母の日」にちなんだ説教を聴いていた、ソノラ・スマート・ドッドという女性は、早世した母に代わり、自分を含め6人の子を男手一つで育ててくれた亡き父にも感謝の日があって良いのではないかと考え、父の誕生日である6月に礼拝をしてもらい、墓前に白いバラを供えた。これが現在の「父の日」のはじまりとされている。つまり、「父の日」は「母の日」の副産物として生まれたというわけ。米国では、ニクソン大統領が1972年に6月の第3日曜日を公式な国の記念日と宣言し、日本もそれに倣っている。今年は6月17日。ちなみに、トランプ大統領は、「父の日」はどう過ごすのかと問われ、「仕事だ。北朝鮮に電話する」と答えたという。
テレビニュースで“おとうさん、いつもありがとう”と幼い我が子から手作りのお菓子やアクセサリーをプレゼントされ、相好崩すパパたちの様子を見ながら、一方で、中東やアフリカの紛争地域で、血まみれになった我が子を抱えながら泣き叫ぶ父親たちの姿を見たりすると、平和な世の中のありがたみを感じる。父親にとっての何よりの喜びは、一年に一度か二度のプレゼントよりも、子どもが健やかに成長し、幸福な人生を歩んでくれることに尽きる。
さて、もともと「父の日」は「母の日」に比べ影が薄く、百貨店や通販業者は、毎年ギフト商戦を盛り上げようと懸命らしいのだが、今年は「父の日」のセルフ化が顕著になっているとのことだ。つまり、お父さんたちが“自分へのご褒美”として、自らギフト商品を購入するケースが増えており、SNSでは“寂し過ぎる”とか“何だか哀れ”などと書き込まれている。確かに、プレゼントというものは、その中身よりも贈る側の気持ちが嬉しいのであって、家族のだれも何もくれないから自分で、というのは記念日の趣旨から外れている気がする。
それはともかく、やはり“セルフ”という名称が冠せられると、味気なさとか寒々しさのようなものを感じさせるのだろうか。1950年代に、日本でスーパーマーケットが誕生したとき、客が自分で商品を探してかごに入れ、精算場まで持ってくるというセルフ方式が今日ほど普及するとは、当時は予想できなかったそうだ。“あんな横着な商売、長続きするわけないさ”─。
それまで、小売店というものは、客と店員がカウンターを挟んで対面し、客の注文に応じて店員が商品を取り出す方式が通常だった。また食品や商品は、客の注文に応じて店員が切り分けて包装する必要があった。そして、そのやりとりの中で挨拶や会話がなされることが商売の重要なシュチュエーションとされてきた。確かに、対面販売にはそれなりの良さがあろうが、いまセルフ方式での買い物が、味気ないとか寂しいなどと感じる人はあまりいないだろう。会社帰りのお父さんが、買い物かごを持って酒の肴を物色している姿には一抹の侘しさを感じはするが…。
GSのセルフ化が日本で認められたのはいまから20年前のこと。この時も、スーパー誕生当時と同じような見解が支配的だったが、20年経ったいま、結果はご覧のとおり。むしろ、セルフ方式の方が、店員にいらないものまで勧められたりしないから楽でいいと考える人は少なくない。「父の日」に欲しいものを自分で買いに行くお父さんも、もしかしたら、家族からの押し付けがましいプレゼントに嫌気がさしてしまっているのかも。あるいは、家族に気兼ねせず、独りで買い物するほうが幸せなのかも。それはそれで寂しい話だが。
そもそもプレゼントというものは、記念日だからしなくちゃ、というものではないように思う。何でもない日に、ささやかなものでいいから、心のこもった贈り物をするのが最も相手に驚かれ、喜ばれることではないだろうか。この原稿を書きはじめる直前に、大阪府北部を中心に大きな地震があった。いまも被害状況が刻々と報じられている。何万世帯もの家庭が試練に直面している。こういう時に必要なものこそ家族愛であり、隣人愛というギフトなのだと思う。
セルフスタンドコーディネーター 和田信治
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