vol.817『ショーン・コネリーを偲んで』

先月30日、ショーン・コネリーが亡くなった。享年90歳。2003年製作のSF映画「リーグ・オブ・レジェンド」で主演したのを最後にスクリーンから遠ざかっていたが、訃報に接し、やはり喪失感を覚える。

コネリーは、英国エジンバラの労働者階級の家に生まれ、17歳で海軍に入隊するも、3年後に十二指腸潰瘍を患い除隊。以後、レンガ職人、ダンスホールの用心棒、プールの監視員など職を転々とするかたわら、ボディービルに励む日々を送る。友人の勧めでミュージカルの舞台のオーディションに応募し、端役として出演したのが俳優人生のスタートだった。
50年代、テレビや映画に顔を出すようになるが、ほとんど注目されることがなかった武骨で垢抜けしないスコットランド人の彼に転機が訪れたのは1962年。ケネディ大統領も愛読したスパイ小説の映画化にあたり、その主演俳優に大抜擢されたのだ。こうして、「007」 ジェームズ・ボンドがスクリーンに登場した。

これまでにコネリーを含め、6人の男優がボンドを演じてきたが、いまも“ミスター007”の称号はコネリーのものだ。エレガントの欠片もない現ボンド、ダニエル・クレイグを観ていると、コネリー・ボンドの眩暈すら覚えたダンディズムが一層愛しく思える。□

コネリーはシリーズ中6作でボンドを演じたが、第3作「ゴールドフィンガー」公開あたりから人気絶頂となり、マスコミやファンに追いかけられる日々に悩まされることになる。また、ボンドのイメージがあまりにも強烈であるがゆえに、他の映画に主演しても評価されず、興行的にも失敗が続いた。プレッシャーとストレスに耐えられなくなったコネリーは、巨額のギャラ提示を蹴ってボンド役を降板する。41歳の若さだった。

70年代に入ってもボンドの人気は続いていた。コネリーがそのまま演じ続けていれば、富も名声も安泰だっただろう。しかし、彼は口ひげをたくわえ、すでに三十代後半から薄くなりつつあった頭からかつらを取っ払い、堂々とはげ頭で勝負するようになった。まとわりつくボンドのイメージに苦しみながらも、時代劇、SF、サスペンスなど様々なジャンルに挑戦し、遂に87年、「アンタッチャブル」でアカデミー助演男優賞を獲得する。

この当時、私はゼネラル石油の特約店を経営していたのだが、特約店の会合で、以前から可愛がってくれていた立派なはげ頭の初老の特約店主がひげをたくわえていたので、「○□さん、似合いますよ、ショーン・コネリーみたいで」と声をかけた。彼は相好を崩し「いやー、嬉しいねー。みんな“森繁”だの“乃木大将”だのとからかうんだけれど、そんなこと言ってくれたのは和田君だけだよ”と大層喜んでくれた、なんてしょうもないエピソードを思い出す。

90年代、円熟の境地に入り、コネリーの快進撃が始まる。次々にヒット作に主演し、若い世代からも人気を集め、2000年にはエリザベス女王からナイトの称号を授与され、名実ともに“女王陛下の007”となった。晩年は認知症に苦しんでいたそうだが、私たちの脳裏には、タフでクレバーでダンディな、あのジェームズ・ボンドがいつまでも生き続けている。どん底から栄光へ、そしてまた不遇の時を経て再起を果たした名優の生き様に奮い立たされる。
たかが映画、されど映画─。「アンタッチャブル」でコネリーが演じた、ベテラン警官ジム・マローンが体中に銃弾を打ち込まれながらもエリオット・ネス(ケビン・コスナー)に必死の形相で「打つ手を考えろ!」と告げ、絶命するシーンは何度観ても胸が熱くなる。

ショーン・コネリーのベスト・パフォーマンスをひとつ挙げろと言われれば、やはり007第一作「ドクター・ノオ」でボンドが初めて登場するシーン。タキシードをキメて、美女に自己紹介する。「マイネーム イズ、ボンド。ジェームズ・ボンド」─。くぅ~カッコイイ!おれも真似して、「マイネーム イズ、ワダ。シンジ・ワダ」と自己紹介してみようかな。恐らく悲惨な空気になるだろうが…。

セルフスタンドコーディネーター 和田信治
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