石油精製・流通研究会が2月27日に行われ論点整理が公表されています。
流通関連で「『顧客接点』としてのSSに求められる価値について」というテーマに対して、「設置から40~50年経つSSは設備更新が必要だが、消防法の規制より更新にかなりの自己負担が生じるため、営業をやめてしまうという話もある。」という意見がありました。
経営不振の会社にとって、残るも地獄、止めるも地獄の地下漏えい問題です。しかしこの問題、昨日今日出てきたかの如く語られていますが、私は構造的な問題ととらえています。
1990年まで行われた揮販法によるSS建設規制が元凶にあると考えています。揮販法が施行されたのが一九七六年です。直後に第二次石油危機があり、資源エネルギー庁は行政指導でSS新設・大型改造を凍結しました。
例外は一件廃止して一件新設する「廃止代替建設」でしたが、原則として日本のSSは十数年間、固定化されました。その後、原油需給が安定しても「凍結」は継続されて、1990年まで15年間続きました。
業界に再投資余力があった時代の長すぎた凍結は、昭和30年代に設置された旧式施設を温存して現在の地下漏えい問題の種をまく一因となったのは事実です。また、市場変化に対応して適正配置を不能にして、SS経営を歪めることにもなりました。
加えて、揮販法の前に第一次石油危機があり、原油高騰による物価対策兼元売救済策として、資源エネ庁は標準価格を発動しました。これが長らく「ガソリン高・その他安」の価格体系となります。結果として、元売はガソリンだけが採算油種となりました。
あらためて驚いたのですが、1980―84年のガソリン価格は150円を超えていました。当時の可処分所得を考えると、とてつもない値段でした。それでも前年比微増していたのですから、消費市場は物凄い吸収力を持っていたことになります。
この時代の為替相場で計算すると、原油価格から小売価格のスプレッドは1㍑=60円あります。現在は20円前後ですから業界粗利は3倍もありました。けだし、ガソリンで全収益を賄っていた感があります。
新設が凍結されガソリンに傾斜した利益構造は、おのずと元売政策の優先順位を系列SS数とその維持に向かわせました。SS数の維持=系列の手厚い保護と建設規制もあって、店舗と経営を革新する意欲がそがれたのも事実です。
その後、1990年の凍結解除で凄まじい新設ラッシュが起こり、各地でガソリン利益を背景とした販促競争・価格競争が繰り広げられた状態のままで、96年に金融危機のさ中で自由化となりSS業界の温床は一気に吹き飛びました。
昔から行政が過剰介入して、業界団体もそれを望むという構造があります。私は霞が関がもっとも不得手な流通小売段階に入り込み過ぎて、規制と緩和のタイミングを誤る悪弊が業界をミスリードしたと考えています。護送船団型で課題を先送りした結果、時期を誤った施策転換によって市場が過激に変動するというパターンが見られます。
前々回に昭和60年国会における資源エネ庁・畠山襄石油部長の発言を紹介しましたが、この時点で事後調整の問題とセルフ化にも言及されています。行政の関わり、業界団体の関与についても「研究会」なら徹底検証していただきたいものです。
COC・中央石油販売事業協同組合事務局