COCと独立経営<603> 幌馬車は鉄道業者になりえなかった – 関 匤

私が尊敬するビジネスマンに某総合商社OBがいます。長く米国勤務しましたが、広く産業界につぶしの効く方です。

「日本の石油業界は石油業法以来半世紀間、系列・非系列とか事後調整とか業転の議論ばかり。これほど産業規模が大きくてこれほど進化しない業界はない」と日ごろの本音をぶつけてみたところ、米国の諺を紹介されました。

それは“幌馬車は鉄道事業者になり得なかった”です。

鉄道というビジネスモデルが出現した時に、幌馬車業者たちは否定的な意見や妨害に走り、あげくに消えて行ったということです。英国でワットが蒸気機関を作ったのが1769年、スチーブンスンが蒸気機関車を走らせたのが1825年です。米国では1830年に最初の蒸気機関車が走ります。その年の総路線距離は40マイル。それが10年後に20倍、20年後に200倍、そして半世紀後の1880年に2200倍、8万8千マイルに延伸します。

この間、幌馬車業者は鉄道へ業態転換する時間的余裕は十分あったはずです。しかし最初に機関車を走らせたのは帽子職人の息子、鉄道王と言われたハリマンは牧師の息子です。つまりこの話は、既存業界に過剰適応してしまった人たちから革新者が出現しないということです。

私の田舎町にも似た話があります。明治時代に東西に走る旧国鉄線が開通しました。町の南数㌔㍍に屈指の名刹があり、参拝の出発点まで駅から人力車を利用する参拝客が多数いました。お蔭で門前の宿場町として発展しました。

大正時代、名刹の集客力に目を付けた私鉄が南北に走る鉄道を計画します。すると人力車組合が猛烈に反対しました。人力車の背後には町の実力者たちがいて、鉄道計画は頓挫。私鉄はやむなくわが町の北で東に大きく迂回する路線に変更し、駅は隣の村に出来ました。

それから100年、隣村はターミナル駅を持つ市となり、わが町は凋落したあげく10年前吸収合併されました。人力車が町を潰したと揶揄されます。しかしこれは笑えない話で、時代の当事者にとっては生殺与奪の権をゆだねる大問題であったのです。そして当事者には未来が見えないということでもあります。

一方、鉄道を走らせる当時のチャレンジャーたちは、幌馬車や人力車に比べてはるかに輸送量が大きく、高速で快適かつ遥かに低料金で長距離移動可能な乗り物を消費者が支持しないはずはないと考えたことでしょう。既得利権という失いものが無いから原理原則で考えることができたのでしょう。

現在、次世代のSSのあり方を研究している人たちがいます。私も非常に関心を持っております。

しかし、米国で言えば1840年頃の幌馬車業者が集まって次世代の乗り物を研究しているように見えてしまいます。次世代とはプレーヤーが一変することです。

実は、初期の鉄道も馬車に曳かせる試みがあったそうです。しかし蒸気機関という新技術が馬車を一掃しました。馬車の延長線で考えない帽子職人や牧師の息子が鉄道の担い手になったのです。

COCで最近渡米した人たちの話を聞くと、SS数は日本のように激減どころか年率でコンマ数%の減少に止まります。しかしプレーヤーは一変しています。「10年前、一等地を占有していたシェブロンやシェルが陳腐化し、コストコやクイックトリップのような流通系に主導権が入れ替わった」と言います。

流通構造に巨大な置換えが起こり、しかも現在進行中ということです。AIやIoTの活用、自動運転、EVなど変動要因が出現しているからです。

省庁間のすり合わせ、政治圧力の調整、業界団体の権益保護などを前提とした「次世代の研究」は、“幌馬車(人力車)の論理”に制約されるのではないか、危惧しています。

 COC・中央石油販売事業協同組合事務局


〒104-0033
東京都中央区新川2-6-8
TEL: 03(3551)9201
FAX: 03(3551)9206